昨今、新しい公共が叫ばれ、私もご縁あって円卓会議の時などは政策調査員として内閣官房のお手伝いを少しだけさせていただいたりしました。

私もまちづくりと言われる分野にカテゴライズされるので、色々な地域で取り組みされる方と多くお会いしますが、この新しい公共が勘違いされている場合があります。これまでの行政から民間に公共を担う人をより拡充するところまではいいのですが、それは公共性があるんだから、予算くれ、といつたような具合に結局は業務委託してくれ、補助金をくれ、といった具合の話になってしまう場合が結構多いわけです。

新しい公共は、従来公共=行政がやること、という既成概念を開放し、民間でできる公共は民間でやれるように規制緩和をしたり、寄付税制などを制度化して、これまで一方的に税金でお金が集められて、行政が決めたサービスだけを受けていたものを転換、国民自身が公共サービスを選択できるようにするところにあるわけです。

んがしかし、結局行政からそれをやるのにお金くれ、というのは古い公共になるわけです。もちろん行政がやらなくてはならない公共サービスもありますので、それはそれで合理化するのに民間がやるのはいいのですが、皆が勝手に「俺達の取り組みには公共性がある、だからくれ」というのを言い出したら、結局は今までの外郭団体にまいていた税金がスイッチするだけになってしまいます。

こういう公共論を私は「勝手公共論」と呼ぶことにしています。
自分勝手に公共があると言い出す。自分の取り組みに公共性があるんだというのはまぁいいとして、公共性があるんだから、行政がかねだす=税金を使う、のが当たり前だ、という考え方です。。そんなこと許したら、世の中の事業でなんでも一定の公共性はあるわけでして、それを理由に行政にどうにかしてもらおうというのは、お門違い、前時代的なわけです。

けど、こういう人は結構多い。地域で取り組みしてても結局はいいことやってる意識だけで、財源を税金にだけ求める。これは地域に必要なことだ。だから行政の支援なしにやる必要さえない、支援して当たり前だ。元々行政がやるべきことを俺達がやっているんだ、といった論法です。それが違うのです。そもそも公共=行政の仕事、というのが違うのです。

国を助けて、国に頼らず。

公共を自分たちで支える仕組みにしていくことこそ、新たな仕組みです。地方分権は国から地方へ公共サービスを移すのではなく、さらにもう一歩踏み込んで、住民などが自ら互いにやりあう形で共有する相互扶助のモデル(コモンズ)や、新たなNPOのサービスなどによってなされるように変更していく必要があります。

そもそも国は今の公共サービスレベルを今の税源モデルでは継続できません。

私たちの将来の公共は私達の手に委ねられている。
新しい公共はそういう自立の意識と行動から始まると思います。

"何か"を引き出すために「公共」という言葉を使うことはないようにしたいものです。